石川雲蝶による彫刻絵画がすごい赤城山 西福寺(せきじょうさん さいふくじ)
室町時代後期、1534年に開かれた赤城山西福寺。
ここが多くの人をひきつける理由は、本堂の隣に位置する開山堂内外に施された石川雲蝶の彫刻、絵画、漆喰細工にあった。
西福寺では、通常撮影禁止だが期間限定で9月末までお寺内の撮影が可能だそうだ。この機会にぜひ一度訪れてみてはいかがでしょうか。
西福寺は「越後日光開山堂」とも呼ばれていて、幕末の名匠、石川雲蝶の彫刻絵画がとてもすばらしく、彼は日本のミケランジェロと称された。石川雲蝶の作品は新潟県文化財にも指定されている。西福寺は日光東照宮にも劣らないほど素晴らしい彫刻であることから、「越後日光開山堂」とも呼ばれているそうだ。なかでも特に「道元禅師猛虎調伏の図」は圧巻。
本名を安兵衛といい、文化11年(1814)江戸雑司が谷で生まれた。弱冠20歳前後で江戸彫石川流の奥義を窮め、苗字帯刀を許されたといわれている。
越後へとやって来たのは32歳頃。三条本成寺の世話役、内山又蔵氏の依頼を受け、本成寺に数々の彫刻を制作している。開山堂の建立を計画していた当寺の大龍和尚様が雲蝶のうわさを聞きつけて魚沼に招き入れ、雲蝶と西福寺のお付き合いが始まる。
開山堂は、嘉永5年(1852)起工、安政4年(1857)落成、雲蝶はわずか5年数ヶ月で開山堂内外の彫刻絵画漆喰などの大作を仕上げている。
その後、雲蝶は越後の名匠となり、山門(白門)の門扉の彫刻と仁王像、山門(赤門)の前の火除け地蔵と禁葷酒、本堂の襖絵など数々を製作している。
<曹洞宗>赤城山西福寺は、1534年(室町時代後期)、芳室祖春(ほうしつそしゅん)大和尚によって開かれた。ご本尊様は阿弥陀如来三尊で、鎌倉時代の作とされる。
本堂大間の格天井の菊の御紋は、幕末期の1860年前後、桑名藩主 松平定敬(さだあき)公が京都所司代を勤められた頃に頂いたそうだ。
西福寺開山堂には、御開山芳室祖春大和尚様と曹洞宗の開祖様である道元禅師様が中央に、その周りにはお寺を守ってこられた歴代の御住職が祀ってある。
開山堂は、蟠谷大龍(ばんおくだいりゅう)大和尚により建立され、嘉永5年(1852)起工、安政4年(1857)に完成。建築様式は、鎌倉時代禅宗仏殿構造、屋根は茅葺き二重層、上層部入母屋造り、総欅五間四方、唐破風向拝を有している。
開山堂内外には、石川雲蝶作の彫刻や絵画が施されている。開祖道元禅師を題材にした作品が多く、特に堂内の天井三間四方全面に施された大彫刻、「道元禅師猛虎調伏の図」は、透かし彫りの繊細さと極彩色のあざやかさで、実に見事で感動する。
1802年、禅翁実参(ぜんのうじつさん)和尚が再建。棟梁は出雲崎大工 小黒七左衛門で、今でも新潟中越地域には、彼が棟梁となって建てられた古い本堂が存在しているそうだ。本堂内の襖には石川雲蝶の絵が施されている。
鐘楼は、開山堂と同時代の1850年に建立され、熊谷の小林源太郎作の彫刻が施されている。源太郎は雲蝶と並ぶ彫刻の名手で、47歳のとき熊谷から越後入りをする。雲蝶より10歳近く年上の源太郎は、越後では雲蝶の兄貴分だった。
梵鐘は、新潟の土屋忠左衛門の鋳造で、三十三体の観音像が模られている。また、『勅許(ちょっきょ)』の銘があることから、戦時供出時に重要美術品と認められ、供出除外と指定されてお寺に帰ってきた名鐘である。
最初に参拝者が通る第一山門は、朱色に塗られていることから通称赤門とよばれている。
この赤門は白門より以前に建立されたが時代は不明。もしかしたら上杉景勝や直江兼続が幼いころこの門をくぐり遊んでいたのかもしれないそうだ。
石川雲蝶の銅像は平成23年、石川雲蝶生誕200年の記念事業として建立された。これは、開山堂内にある木彫の「鬼退治の仁王尊」を製作中の姿。
- 拝観時間 9:00〜16:00(最終受付15:40)
- 拝観料 大人 / 500円 中学生・障害者 (手帳提示) / 300円
小学生以下 / 無料(小学生20人以上の団体は100円×人数)
団体割引 / 20人以上1割引(小学生の団体は除く) - 住所 〒946-0033 新潟県魚沼市大浦174番地
- 連絡先 TEL.025-792-3032 / FAX.025-792-8753
- 交通
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